神道について解説するWEBサイト 日本人に宿る神道イズム。今こそ見直される八百万の神の精神

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神々に関する知識

神の変遷

信仰にも存在する「流行」

古代の人々が祀った神は、豊作をもたらす農耕の神であり、土地の守り神でした。
そして、その地域の人間が亡くなると霊魂は土地の守り神のもとに行くとされ、こうした祖霊信仰の上に立つ神は「大国主命」「国魂」など、さまざまな名で呼ばれていました。

6世紀以降、王家が天照大神を祖先神として祀るようになったため、貴族たちも天照大神の親戚や臣下とされた各々の氏神を祀るようになります。
そして、中世になると天神信仰・八幡信仰・熊野信仰などが盛んになり、さらに江戸時代には稲荷神や七福神といった「富をもたらす神」の神社が次々に作られるようになっていきました。

天照大神

日本の神の最高位

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天照大神(あまてらすおおみかみ)は、伊勢神宮の内宮を総本社とする「神明神社」に祀られている皇祖神です。
日本神話では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘であり、高天原(たかまがはら。神の住む場所)の統治者として日本最高神の地位を占める太陽の神とされています。
この天照大神が、孫である「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」に皇位を象徴する三種の神器を授け、それを携えて日向国の高千穂の峰(九州南部)を治めるよう命令し、降臨させました。

初代の天皇である神武天皇は、この瓊瓊杵尊の曾孫であるとされており、これによって皇室の全国支配が正当化されたのです。
そもそも王家は、元は「大物主神(おおものぬしのかみ)」を祀っていましたが、6世紀に中央集権化を志向した時、自分達と同列の「大国主神(おおくにぬしのかみ)」の上位に太陽神である天照大神を作ったとされています。
しかし、せっかく創った天照大神が人々に馴染み薄いのは困るため、朝廷が庶民の間に語り伝えられていた太陽神にまつわる神話を日本神話に取り込みました。

このように、現在伝わる日本神話は天皇支配を正当化する政治性の強いものですが、逆にこれが「天皇は私欲を持たず、神のような行いをする事」を強制する結果となり、天皇の行動を束縛しました。
天皇が権力を自由に行使できない「君臨すれども統治せず」という皇室のあり方は、ここから定着したといわれています。

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八幡神

海の神から皇祖神へ

多くの日本人にとって馴染み深い「八幡様」。
その信仰は大分県宇佐市の宇佐八幡宮から広まったもので、もともと八幡神は海の神であったとされています。

6世紀の半ば、宇佐八幡宮に仕える巫女たちが医術によって信者を集めるようになると、しばしばその巫女たちが大和に出向き、天皇の病気回復を祈って治療にあたりました。このことから皇室が宇佐八幡宮を重んじるようになり、いつしか八幡神=応神天皇ということになっていったようです。

その後の奈良時代、東大寺大仏建立の際に「大仏づくりを見守りたい」という八幡神の神託により「手向山八幡宮」が建てられたり、平安時代、京都男山に建てられた「石清水八幡宮」が皇室の祖神・京都の守護神とされたりしたことで皇室との結びつきを強めた一方、源義家が石清水八幡宮の社前で元服し「八幡太郎」を名乗ったことから八幡神は源氏の守り神とされるようになり、やがて武士全体を助ける武神として全国に広まっていきました。

現在、八幡宮は全国に約20,000社あるといわれており、稲荷神社に次ぐ数を誇っています。

天神

祟り鎮静から商工神、学問神へ

学問の神として世に広く知られ、受験シーズンになると多くの受験生が合格祈願に参詣する「天神社」。
実は、学問の神として一般に崇められるようになったのは、江戸末期〜明治時代以降であるとされています。

平安時代、陰謀によって太宰府に左遷された菅原道真公が失意のうちに亡くなった後、世には天災が相次ぎ、疫病が蔓延しました。これが道真の祟りであると考えた貴族たちは、その怒りを鎮めようと大規模な祭りを行ない、北野天満宮を建立。その後も「天満天神」として信仰され、各地に天神社・天満宮が造られていきました。

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こうして、当初は恐ろしい祟りを封じるために広まった天神でしたが、平安末期には祟りも弱まり、武士たちが八幡神を信仰するようになったことで、天神は次第に商工民たちの神として祀られるようになっていきます。
さらに江戸時代になると、稲荷神や七福神などの広まりによって天神と商工民との繋がりは後退し、代わりに詩人・儒学者として道真を尊敬していた朱子学者たちによる天神信仰が盛んになりました。
これが元となって、庶民の間に天神を学問の神とする考えが広まっていったとされています。

熊野神

あの世に繋がる地の象徴

古来より、神聖な地域と考えられていた熊野。
大和朝廷の人々は、熊野の海岸一帯を「あの世に繋がる地」であると考えていました。

日本書紀で伊弉冉尊(いざなみのみこと)を葬った地とされ、また古くから修験(しゅげん)の地としても知られてきた熊野ですが、その名が広く知られるようになったのは院政の時代、上皇や女院が熊野を参詣する熊野御幸がきっかけといわれています。
その後、院政が衰退した後も熊野信仰は衰えず、熊野参詣は武士や一般庶民へと広まっていきました。

この熊野の象徴ともいえるのが、「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」、いわゆる熊野三山です。
今日では、熊野三山の祭神を勧請した熊野神社が全国に3,000社余りも存在し、八幡神社・稲荷神社と並んで広く信仰されています。

稲荷神

最も数多く身近な神社

赤い鳥居と狐を象徴とし、多くの人から「お稲さん」と親しみをこめて呼ばれる稲荷神社。
稲荷神は、もともと京都盆地に勢力を張っていた豪族「秦氏」によって開かれたもので、平安時代初期、稲荷社の総本山である伏見稲荷大社が東寺(教王護国寺)の鎮守神となったことなどをきっかけとして、全国に広まりました。

当初の稲荷神は、稲・穀物といった農耕の神でしたが、中世になると商業・工業が発達するのに伴って、農耕だけではなく商業や工業、屋敷の神ともされるようになり、さらに江戸時代には芸能の神としても信仰されるようになっていきました。

こうして「流行神」となった稲荷神社はどんどんその数を増やしていき、今日では最も数の多い神社として全国各地に祀られており、その数は把握できるだけで3万社とも4万社ともいわれています。

恵比寿神

海の幸をもたらす豊漁の神

福の神の代表的な存在である「七福神」のうちの一人、恵比寿神。
今日では商売繁盛の神様として(特に関西方面で)人気が高い恵比寿神ですが、右手に釣り竿・左脇に鯛を抱えている姿からもわかるように、もともとは海の幸をもたらす豊漁の神です。

昔、漁民たちの間で、海岸に流れ着いた見慣れないものを「エビス」と呼び、それを海の神からの贈り物として祀る風習があったそうで、この風習が恵比寿神の信仰のもとになったと言われています。

しかし、後に日本神話が整えられていく中で、恵比寿神は「大国主命(だいこくぬしのみこと)の子の事代主命(ことしろぬしのみこと)である」という説や「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の第3子・蛭子尊(ひるこのみこと)である」という説、一寸法師のモデルとされている「少彦名神(すくなひこなのかみ)である」等々さまざまな説が生まれたため、現在全国に点在する「えびす神社」に祀られている「えびす神」は、すべてが同じ神ではありません。